国内大型類人猿飼育の課題と再構築への道
はじめに:大型類人猿の飼育に携わっていた私の経験からお伝えします。
直接飼育から準間接飼育への移行に伴い、大型類人猿と飼育員との心理的距離が変化し、これまで培われてきた飼育の経験値が、世代間で十分に継承されず失われた点が大きな課題であると感じています。
また、欧米の飼育マニュアルを導入しているものの、個体の成育歴や飼育環境の違いに関する分析が不十分なため、現場での適切な判断が行えていない点も見逃せないと思います。
飼料管理については、以前より大きく改善されていると感じますが、心理的ケアや行動管理においては、なお一層の取り組みが求められると考えます。

第1章:準間接飼育がもたらした変化とその影響

1-1 安全性の向上と引き換えに
準間接飼育(Protected Contact)は、飼育員の安全を確保する大きな転換点でした。
しかし、物理的な隔たりが飼育員と動物の相互理解に壁を作り、細やかな観察力や直感的な対応能力を育みにくくしてしまっています。
1-2 経験知の断絶と継承不全
かつてのベテラン飼育員は、動物の仕草や雰囲気から状態を読み取る「暗黙知」を持っていました。こうした知識は言語化が難しく、マニュアルには落とし込めません。
世代交代とともに、その経験が組織から失われ、現場では「感じ取る力」が希薄になりつつあります。
大型類人猿の飼育においては、マニュアルや日誌だけでは伝えきれない「暗黙知」が非常に重要な役割を果たします。これは、長年の観察と経験を通じて飼育担当者が身につける“勘”のようなものであり、動物のわずかな変化や空気感を敏感に察知する力です。
たとえば、日誌に「朝の餌の食いつきが悪かった」「鳴き声が少なかった」と記録されていても、それが通常の範囲内の変化なのか、何らかの異変の前触れなのかを見極めるには、その個体や群れの“普段の様子”を深く理解している必要があります。そうした判断は、数値や言葉では表しきれない、ごく微細な行動や雰囲気の違和感を察知する力に基づいています。
この感覚は、人間同士の関係における「なんとなく今日は機嫌が悪そう」といった直感に近いものです。明確な根拠はなくても、日々の接触を重ねる中で自然と培われていく感受性であり、大型類人猿のように知性と感情の豊かな動物を扱う上では欠かせない要素となります。
そのため、このような暗黙知を次世代の飼育者にどのように継承し、共有していくかは、現場における大きな課題の一つです。記録や口頭での申し送りだけでは限界があるため、実際に一緒に観察し、動物と向き合う時間を重ねる中で、少しずつ“感覚”として身につけていく必要があります。
第2章:マニュアル依存の限界

2-1 欧米式マニュアルの導入と効用
JAZAやAZA、EAZAが提供するマニュアルは、科学的根拠に基づく最低基準として機能し、特に栄養や展示施設の設計に一定の成果を上げています。
2-2 現場との乖離と判断力の低下
マニュアルは「守るべきルール」ではなく「現場に適応させるための指針」であるべきです。
日本特有の気候、施設制約、個体ごとの違いを無視した運用は、かえって動物の福祉を損なうリスクを高めています。
第3章:進歩と課題が混在する福祉管理
3-1 栄養管理の改善
飼料の改善に関して、私は特定の果物――たとえば「バナナは与えてはいけない」といった個別の制限を設けることよりも、飼料全体の栄養バランスを重視すべきと考えています。
特に、大型類人猿に与える飼料の構成においては、野生下での食性を踏まえ、野草や樹木などの割合を適切に含めることが重要です。現代の果実は品種改良によって糖質が高く、嗜好性も強いため、過剰に与えることで本来必要な繊維質やミネラルの摂取が不足し、栄養バランスの崩れや偏食、さらには健康や行動面への悪影響を招く恐れがあります。
そのため、問題は特定の果実の可否ではなく、糖質の多い果実類の給餌量を適正化し、動物本来の食性に沿った給餌内容に見直していくことにあると考えています。
前章で述べたマニュアルの課題にも関連しますが、同じ果物や野菜でも、国や地域によって栄養価や味、見た目に大きな違いがあることは重要な点です。
たとえば、リンゴ一つをとっても、日本で流通しているものは品種改良が進み、非常に糖度が高く、甘味や香りに富んだものが多くなっています。一方で、ヨーロッパやアフリカなどで一般的に流通しているリンゴは、糖度が低めで酸味が強く、野生の食性に近い特徴を持つ品種も少なくありません。
こうした違いは、海外で作成された飼育マニュアルを日本の現場にそのまま適用する際の障壁となることがあります。見た目や名前が同じでも、実際に動物が摂取する栄養成分が大きく異なるため、給餌内容の設計や量の調整にあたっては、各国の食材特性を理解し、現地の実情に即した判断が求められます。
このような点も含め、マニュアルだけに頼らず、現場での観察と柔軟な対応、そして暗黙知の継承が欠かせないのです。

人間界に例えると・・・


3-2 心理的・行動的ケアの遅れ
動物福祉は「不快を減らす」から「幸福を増やす」へと進化しています。
エンリッチメントやハズバンダリートレーニングなど、動物自身が選択できる環境や、信頼関係に基づいた健康管理が求められます。
しかし実施には人員・設備面の支援が不可欠です。
第4章:未来に向けた提言

4-1 経験知の保存と伝承の仕組みづくり
ベテラン飼育員の暗黙知を、映像やインタビューでアーカイブ化し、若手との実地メンタリング制度と連動させることで、知識継承の仕組みを構築できます。
4-2 科学と直感の融合を支える人材育成
マニュアルを“使いこなす”視点を育てる教育が必要です。
「こうすべきだから」ではなく、「なぜそうすべきか」を考える研修と、現場の創意工夫を尊重する文化が鍵になります。
4-3 組織的な支援体制の確立
飼育員任せでは限界があります。
福祉投資として、専任スタッフ・十分な時間・予算・研修制度など、組織全体でのバックアップが不可欠です。
おわりに:ハイブリッド型飼育文化への転換を

伝統的な直感と、現代の科学的手法の両方を活かした「ハイブリッド型飼育文化」こそ、日本の大型類人猿飼育が進むべき道です。
それは、彼ら一頭一頭の個性を尊重し、豊かな日々を提供するための、人間としての責任でもあります。