フクロテナガザル(学名: Symphalangus syndactylus)は、テナガザルの仲間の中でも最大の種です。体重はおよそ10kg前後ですが、大型のオスでは15kgに達することもあります。野生下では、森林伐採や採掘、道路建設といった開発、人間によるペット取引や食用目的の狩猟によって生息数が急減しており、現在は国際自然保護連合(IUCN)によって絶滅危惧種に指定されています。
東南アジアの熱帯林に生きる彼らの世界は、家族のきずな、圧倒的な鳴き声、そして日本国内での飼育と繁殖の歴史など、多彩なストーリーに満ちています。
家族のかたち
フクロテナガザルの群れは、基本的にオスとメスのペア、その間に生まれた子供で構成されます。生まれてから約8ヶ月の間、子供は母親に抱かれて暮らし、その後少しずつ母親から離れて行動するようになります。6〜8歳で性成熟に達すると群れを離れ、独立して新たなパートナーを探します。ペアの絆は非常に強く、一度結ばれるとどちらかが死ぬまで生涯続くのが特徴です。
この「一夫一妻の絆」は、霊長類の中でも珍しく、人間社会との対比でもしばしば紹介されます。


日本では、1980年に神戸市立王子動物園にフクロテナガザルが来園しました。そこでは、45年間もの長きにわたり連れ添ったペアが知られています。メスの「エヘ」と、2025年2月に亡くなったオスの「テツジィ」です。まさに「生涯の伴侶」という言葉がふさわしい二頭の存在は、多くの来園者の心に残り続けています。
鳴き声と「歌」
テナガザルの長い鳴き声は「歌」と呼ばれ、なわばりのアピールや夫婦間のコミュニケーションに使われます。フクロテナガザルはその名の通り大きな喉袋をもち、これをふくらませて大声で鳴き合います。その声は2km~数キロ先まで届くともいわれています。


- 前奏(A)
- 間奏(B)
- グレートコールの部(C)
- 後奏(D)
AとDは1回だけで、BとCは繰り返されることが多く、回数は状況によって変化します。例:「ABCBC…D」
間奏では、オスとメスが行動や声を同期させ、デュエットの完成度を高めていきます。グレートコールの部では、メスが「グレートコール(Great call)」を発し、それにオスが「コーダ(coda)」を被せるように鳴きます。枝を揺らしたり跳び回る派手な動きが伴うのも特徴で、この瞬間がもっとも迫力ある見せ場です。




「おっさん声」の正体
東山動植物園の♂ケイジは「おっさんの叫び声みたい」と話題になりました。
「ア゛ァーッ!!」
という声は独特な鳴き方ではなく、コーダの一部です。コーダの鳴き方や音程、声色には個体差があり、♂ケイジは感情が高ぶるとメスのグレートコールを待たずに「ア゛ァー!!」を披露することがあります。
国内の飼育状況
現在、日本では12施設でおよそ40頭のフクロテナガザルが飼育されています。国内生まれの個体が多いですが、中には空港で発見され保護されたものや、かつて個人で飼育されていた個体も含まれます。
動物園や保護施設におけるフクロテナガザルの存在は、種の保存や教育普及の面で重要な役割を果たしています。
飼育施設と個体名
- 秋田市大森山動物園:♂パパイヤ / ♀ワタル / ♂天 / ♂空






- 仙台市八木山動物公園:♂ジャン / ♀イッチ



- 那須ワールドモンキーパーク:♀フク
- 千葉市動物公園:♂ブレイブ / ♀ハート / ♀茶々
- 名古屋市東山動植物園:♂ケイジ
- 日本モンキーセンター:♂アボ / ♀リンダ / ♀マユ / ♀イチゴ / ♂ドリアン / ♂ライチ / ♀メロン / ♂スイカ
- 天王寺動物園:♂レモン / ♀ナナ / ♂ヨッちゃん / ♂ゴッちゃん
- 神戸市立王子動物園:♀エヘ
- 池田動物園:♀ハナコ / ♂ムサシ
- 九十九島動植物園森きらら:♀クロ / ♂カーリー / ♂カケル / ♂のぼる / ♀マル
- 到津の森公園:♂チャン / ♂マツ / ♀クロミ / ♀アロナ / ♂ハルタ / ♂セナン

- 鹿児島市平川動物公園:♂キウイ / ♀カンナ / ♀なのはな
繁殖の歴史と成果
日本初の繁殖



1964年、日本モンキーセンターに♂ハリマオが来園し、翌年に♀サチと♀トシが加わりました。1965年には「テナガザルの森」が完成し、3頭での生活が始まりました。1967年には♀トシが出産しましたが赤ちゃんは死亡。1968年には♀サチが♂ハリケンを出産し、日本で初めて自然繁殖に成功しました。
人工保育の成功
1983年、神戸市立王子動物園でエヘが赤ちゃんを出産しましたが、床の上で発見されたため母親に育てられず、人工保育に切り替えられました。1ヶ月半にわたって2時間ごとに人間用ミルクを与える必要があり、担当職員は赤ちゃんを自宅に連れ帰って世話をしました。その後は動物病院の保育器で育ち、赤ちゃんは「サッちゃん」と名付けられました。
1984年に千葉市動物公園へ移動し、「クロ」として7年間生きました。この事例は、国内での人工保育の成功例として広く知られています。
今後の繁殖



近年は国内の動物園同士が協力し、血統を維持しながら繁殖を進めています。2000年以降の25年間で31頭が誕生しており、現在の日本における血統は大きく二つに分かれます。一つは初繁殖ペアのハリマオとサチの系統(25頭)、もう一つは到津の森公園のチャンとクロの系統です。2015年以降に誕生した個体はすべて後者に属しており、次世代の存続を支える重要な系統となっています。
国内最高齢オス「チャン」
♂チャンは1973年、貿易船に乗って旧「到津遊園」(2000年閉園)に来園しました。その後、2001年に「到津の森公園」へ移動し、現在も暮らしています。推定年齢53歳となるチャンは、国内で飼育されるフクロテナガザルのオスとしては最高齢です。
パートナーだった♀クロ(1995年死亡)との間に多くの子を残しており、国内で暮らすフクロテナガザルの約3分の1がその子孫にあたります。現在は孫たちと同居しており、日本におけるフクロテナガザルの血統を支える存在となっています。



引用:到津の森公園公式ブログ(https://www.itozu-zoo.jp/blogs/jyui/2024/09/13565.php)
海外から来園した個体もいますが、繁殖にはつながっていません。限られた遺伝的多様性をどのように守っていくかが、今後の大きな課題です。